金持神社の由来

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金持神社の由来

御祭神

 

天之常立尊(あめのとこたちのみこと)

八束水臣津努命(やつかみずおみずぬのみこと)

淤美豆奴命(おみずぬのみこと)



天常立尊を御祭神とする全国でも数少ない神社。国土経営、開運、国造りの神様をお祀りしています。

 由来

810年出雲の神官の次男が、伊勢神宮参拝のためこの地を通りかかったところ、お守りとして身につけていた神前の根付の玉石が急に重くなりました。そして、この地に宮造りするよう神夢があったので、宮造りしたと伝えられています。

金持郷は、昔、黄金より勝ると言われた「玉鋼」の産地で、原料の真砂鉄が採れる谷を多く所有し、金具の文字で表されているように、鉄(てつ)のことを金(かね)と読んでいた事から、金の採れる谷を多く持つ郷「金持」と呼ばれるようになったと伝えられています。

境内の銘木

金持神社境内には、鳥取県銘木100選中、サワラ、チャンチンの2本があり樹齢600年位と云われています。サワラは神社の遷宮の際に屋根のコワ材として利用するために植えられたものと考えられています。チャンチンはセンダン科の薬木で、実は目薬に用い、先人が鉄生産の予防薬として、中国より取り寄せたものと考えられています。 県内では、このチャンチンの木、1本しか確認されていません。

チャンチンの木

サワラの木

 

金持姓のルーツ

日本で一番景気の良い名字の「金持」。その金持姓のもとになった地名がこの地です。歴史は古く鎌倉幕府御家人、金持広親は1205年から守護職として、この伯耆の国を治め、鉄器製造が盛んである地域にふさわしく、国宝・太刀「童子切安綱」で知られる日本最古の刀匠、伯耆安綱を輩出しています。「吾妻鏡」などにも記載のある由緒ある名字の「金持」。全国の「金持さん」、自分のルーツを探しにぜひこの地へ。

「金持景藤公が必勝祈願」

この地の豪族、金持景藤は、1333年、隠岐を脱出された後醍醐天皇を奉じて討幕の軍に参加し大活躍しました。その際、金持神社に必勝祈願し、神前の戸帳を御旗にしたと伝えられています。京都への遷幸の折には、天皇の右側に名和長年公・左側が金持景藤公で「錦の御旗」を持ち上洛しました。金持大和守景藤公のお墓と伝えられている宝篋印塔が金持地内に現在も残っています。

開 運 伝 説

「長谷部信連公の再起」 平家物語や源平盛衰記など多くの古書で快男児としてうたわれている長谷部信連公。1180年、後白河法皇の第二皇子の平氏追討計画が事前に発覚、信連公は密かに皇子を宮殿から脱出させ、孤軍奮闘しました。そのため七年間、金持郷に流刑の身となりました。その間に日野町にとって大切な延暦寺、長楽寺、祇園神社などを残しています。平氏滅亡後、源頼朝御家人七人衆の一人として、安芸国宮島の検非違使、能登国の地頭職として山中温泉の発掘等を手がけ、のちに加賀百万石前田家の筆頭家老職(穴水城主)として明治まで続く長氏の始祖となりました。

喜びの声

金持神社に奉納された絵馬や、金持神社札所の寄せ書き帳には、お礼参りに来られた方々の喜びの声が記されています。

「私は還暦に億万長者になりました。有難うございました」

「ロト6と競馬と宝クジがあたりました。ありがとうございました。感謝しています。はれて大金持ちです。これで、家族、周りの友達が幸せになりました」

「私はジャンボ宝くじで3億円に当選しました!」

「今回で3回目の参拝です。2回ナンバーズ4が当たりました。有難うございました。これからも当たりますように。お願いします」

※この他、札所に立寄った人から「ギャンブルに強くなった」「参拝したおかげで、商売がうまくいった」などの話が多数あります。